日本的競争の本質に迫る1


日本的競争の本質に迫る
  −日本社会、日本企業、そして日本人の特質とは−

 移動体市場の悪夢のシナリオ、すなわちキャリア、メーカー、代理店、ユーザーの誰もが利益を得られず、誰もが不幸せとなる最悪の事態は何故起こったのか、何故こうなってしまったのか。悪夢のシナリオとともに私が常々抱いてきた疑問である。
 移動体市場に限らず、「何でこうな(る)の」といった事例は経済界はもとより政界、官界そして日常生活にいたるまで枚挙に暇がない。
 今回、NIFTYのマーケティングフォーラムの名古屋地区オフ(東海ワイガヤ勉強会という)のプレゼンテーターを努めることになった。本来標題のテーマは私論としてまとめようと思っていたが時間がない。で、最近読んだ数冊の本の関係部分を要約しワイガヤの切り口とした。

1.競争のさまざまな概念
    堺屋太一著(講談社刊)「大変」な時代−常識破壊と大競争−より

◆日本の見方…現在の日本は自由経済、自由競争の社会
 世界の見方…日本は自由経済の社会でないし、日本企業は(少なくとも日本国内では)自由競争を行っていない。大きな内外価格差は国内での統制的高価格販売を背景に海外市場でダンピングを行っている証左。

◆過剰保護(官僚主導型業界協調体制、護送船団方式)と過当競争体質の併存が日本の経済構造の特質であり、日本人の競争認識を示す絶好の事例。
(過剰保護があるからこそ、過当競争が起こる)

◆「過当競争」は日本独特の言葉。ダンピングなどの不正競争は忌避されるが、自由競争社会では、供給者の競争は激しければ激しいほどよいというのが一般的概念。

◆日本をハイコスト社会にした要因は、官僚主導と業界協調体制の枠の中での企業間の過当な「評判・メンツ」競争と、消費者(市場)ニーズと乖離した「技術者の夢の追求」容認風潮。

◆日本式競争は「大相撲型」。各力士の勝敗と地位序列に関する限りは実力による公平な競争社会だが、厳しい新規参入の制限、伝統的様式による規格化、独占の管理機構(日本相撲協会)による力士の優劣の決定など、市場原理の働かない真の意味の自由競争のない官僚主導の規制内競争社会。

◆また、大相撲が日本的競争社会を象徴しているのは、原則終身雇用であること。一定以上の貢献をした上位力士には年寄制度などの特権があり、個々の力士間は過当競争の世界。無理な体重増、多い怪我や故障など選手寿命の最も短いプロスポーツの一つ。

◆アメリカ式自由競争は「プロレス型」。多数の競技団体、反則さえ許される様式のない何でもありの世界(但し、すべてが情報公開され観客の合意のもとで行うことが条件)、観客動員数によって全てが決まる世界。自由な新規参入、消費者主権は個人にも、組織にも創造性と個性を発揮する機会を与え、常に「常識」が破られ、価格破壊が常態化し、ローコスト社会を作る。

◆プロレスは選手寿命の最も長いプロスポーツの一つであり、一見わざとらしく思える投げ技や受け身も、負傷を負わないための安全で合理的な方法。

◆アメリカ式自由競争の絶対的な2つの歯止めは、製造物責任(PL)原則とコスト内競争を強要する競争の無限性(独占禁止法等)

◆ヨーロッパ式は「サッカー型」。チームやリーグという管理機構が関与している点でプロレスほど自由で多様でないが、大相撲のように全人格的帰属や様式上の規制は無く、基本的には選手個人の実力と観客動員数が決め手(消費者主権)の世界。

◆ただ、手厚い社会福祉制度など国や政府の関与により、自由競争に修正を加えたため、アメリカ型ほど徹底したローコスト追求のダイナミズムに欠け、大量失業という歪みも抱え込む。

◆福祉には「家族福祉」、「地域福祉」、「職場福祉」、「社会福祉」の4種類あり、現在の日本は圧倒的に「職場福祉」に依存する社会。

◆東アジアは「家族福祉主義」の中での「カンフー型」自由競争。カンフーの試合には明確なルールも定まった競技施設もなく、また流派全員がチームプレーを行うのでなく、最も優れた代表者が徹底した自由競争の世界で競い合い、代表者が有名になれば流派全体が興隆する世界。

◆伝統的束縛や政治の干渉、思想・文化統制も強いが、近代工業分野は自由競争が徹底され、特に華人社会は資本と人脈の流動性が著しく高い。大家族に対する貢献を喜びとする倫理と美意識下で、一族の代表者による競争が行われ、成果・利益を一族はもとより故郷へも分配する社会。


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